リスクテイキング


 1、リスクテイキングとは


 リスクテイキングとは、自分の意思でリスクを負った行動を取ることを言います。運転者はどうして危険な運転をしてしまうのでしょうか?


(1)リスクを知覚していない場合。
 危険(リスク)の存在自体に気づいていない場合は、不安全行動が選択されてしまう。
・危険源に気づいていない。→危険源についての知識の習得が必要。
・ある運転行動が危険であることに気づいていない場合。→運転行動と事故の因果関係について知ることが必要。
・不安全行動がクセ、習慣として身についている場合。→行動と事故の因果関係を知り、クセや習慣の習性が必要。
・技能未熟による危険な行動。→基本技能の習得と運転技能に応じた運転を選択できることが必要。


(2)リスク評価の基準
リスクの大きさを決定する要素にはどんなものがあるのでしょう。
・「事故の起こる可能性」「事故が起こったときの被害の大きさ」「事故を起こした場合の責任の重さ」など。
・これらの要素の評価は運転者によって異なります。
・「事故の起こる可能性」は低く、「事故の起こったときの被害の大きさ」は小さく見積もられやすいと言われています。


(3)「意思決定」の段階
安全行動の選択(リスク回避)をするか不安全行動を選択するか。この意思決定の基準は「リスク」と「リターン(効用)」の比較によって決まります。

リスクを回避するか、リスクをテイクするかを判断する基準は、リスクの大きさだけではない。危険を冒しても得られる価値(効用・リターン)が大きければリスクのある行動を取ることになります。

 効用・リターンの内容、これらの「効用」の多くは運転中に生じる「欲求」や「感情」であるのではないでしょうか。
・早く目的地に着く。
・安全確認などしない方が楽だ(面倒)。
・カッコよく見せたい(自己顕示欲)。
・スリルを味わいたい。

 普段、適切な判断ができていても、リスクと効用についての冷静な判断ができなくなることもあります。それは感情(特に焦燥感、怒り)が高まった場合など、効用のみに注意が向きリスクが過小評価されたり無視されることすらあるのです。


(4)交通事故などの危険に近づかないために必要なこと

・リスク・ホメオスタシス説→交通環境や運転者の運転技術が向上しても、一般道路などの交通事故の件数は一定に保たれるという考え方があります。交通事故がある水準からなかなか減少しない要因と言われています。

・何故、リスク・ホメオスタシスが生じるのか。
 運転者は、リスクを大きく評価すれば普段以上に安全運転を心がけるが、それを小さく評価すれば普段以上に危険な運転行動をするようになります。例えば危険を感じる道路では走行速度が遅くなり、安全だと感じるところでは速くなるなど、実際の運転と照らし合わせると分かりやすいと思います。
 このため、「交通環境が改善」され、「運転者の技術が向上」すると運転者の評価する「リスク」が小さくなる。これにより効用がリスクを上回ることになり「不安全行動」が選択されることになります。

・事故を起こさない、危険に近づかないためにはどうすれば良いのでしょうか。
「効用・リターン」を得たい気持ちを抑え安全行動を選択することが求められます。(安全運転態度の向上)
運転者リスクを評価させる点から「違反に対する取締り、罰則の強化」も有効と言われています。


 2、根拠のない自信の怖さ


 ある教習所の指導員が大型二輪の教習を受けている教習生に向かって、「バイクに乗る人は割りと自分の運転に自信を持っている人が多いから、操作をできる限界を知って欲しい。」という話をしていたことがあります。

 確かに、二輪車に乗る人は自分が下手ではないと思っていることが多いように感じます。もちろん、私自身も免許を取得してしばらくたった頃には、操作は結構上手なほうと思い込んでいました。

 現実を思い知らされたのは、本当に上手な人たちと出会ったとき、そして自分の技量を数値で表されたときでした。私が初めて上手な人たちと出会ったのは、警視庁主催の二輪車の安全運転講習会のスタッフをされていた民間のライダーの方々でした。その方々は趣味でバイクのジムカーナ競技をされていたのですが、その圧倒的に上手な操作技術を見て、自分の技量を思い知らされたのです。

 スタート直後のアクセル全開、カーブに入る前のフルブレーキ、車体の瞬時の倒しこみと向き換えの早さ、どれをとっても私には全く太刀打ちできず、当時、自分はバイクの限界というものがこれほどのものとは全く理解していなかったのでした。

 とりあえず、技量面での学ぶことはマネることと考え、やってみたのですが怖くてアクセルは開けられず、ブレーキは弱かったりかけ過ぎの連続で速度を落とせず、カーブの倒しこみも向き換えもお話にならないほど時間がかかってしまい、大変ショックでした。

 それでも安全運転講習会にたくさん参加し、ようやくそこに集まる人たちのトップグループに食いついていけるようになったとき、「トライカーナ」という当時全く新しい安全講習と出会いました。これは、全国共通の標準コースを用いて、タイム計測をし、そのタイムによって自分の技量を数値で見ることが出来る画期的な講習会でした。

 残念ながら現在はその「トライカーナ」を主催する団体はなく、ここではその内容を割愛させていただきますが、初めて参加したときの現実を見て、また更にショックを受けたのを覚えています。数値で自分の技量を測定すると「ツーリングに問題なくいけるレベル」という内容でした。

 自分は安全運転講習会のトップグループで走れるようになったから、絶対いい結果が出ると思い込んでいた自分を再び思い知らされたのでした。ましてや、当時、そこに参加されていた同年代の女性より完全に遅い状態で、上手な人から見ると自分の技量がお話にならなかったというのがはっきり出てしまいました。

 そこで、私と一緒に参加した人の中で、講習会の参加状況など、私と事情が変わらないような人もいたのですが、その人は「こんな小回りなんかバイクの特性の違いだからこの数値なんかあてにならない。」と言い出しました。ところが、講習会スタッフの方がその方のバイクを借りてトライすると、恐るべき数値が出てしまったのです。

 そこで、私とその方の今後のオートバイライフは180°違ったものになりました。私は悔しくて更に練習を重ねました。数値をバイクのせいにしたその人は、二度と講習会等には来なかったのです。別に悔しくて練習したことが良いこととは言いきれませんが、おかげさまで私は今でもバイクを楽しんでいます。

 バイクの操作技術の深さを知れば、いくらでもバイクの面白さを見つけることが出来ますし、ツーリングに行っても余計な披露が少ないので本当の意味で旅を楽しめます。バイクの浅い楽しみ方しか知ることが出来なければ、数年もすれば飽きてしまう乗り物です。ツーリングだって四輪車などに比べれば決して快適なときばかりじゃありませんし。

 当時、誰から聞いたか、「どんなに高性能なバイクも自分の技量以上の性能は出ない。バイクの運転技術向上は、自分専用であって、どのバイクにも適合する最高のチューニングパーツである。」という名言を聞いたことがあります。今考えると、本当にその通りであると実感しています。

 バイク乗りの自信はどこからくるものなのでしょうか?全ての人が自信家とは思いませんが、免許を取ったばかりの初心者に講釈されている方の姿を見ると、運転に相当の自信を持っているんだなぁ、と感じてしまいます。運転にあんまり根拠のない自信があると、運転中の多少のリスクは自分とってリスクであると感じなくなってしまうかもしれません。


 3、行動は習慣化し日常になる

 仕事以外の日常でよく会う人たちと話した内容で、私が印象に残った部分を挙げてみました。ここに挙げた会話をした方はごく一般の人たちです。決してよく事故を起こしている人ではありません。


 「別にわざわざ目視なんかしなくてもミラーで十分見えるし、近ければ音とかで分かるし、目視なんてしたことないですよ。でも危なかったことなんかないですよ。」

 ※バックミラーには死角(見えない部分)があります。死角の状況を確認するためには目視による確認が必要になります。

 「<止まれ>の標識?警察がいたら停まるけど、普段は速度を落としてよく確認してるから大丈夫。停まんなくたって10年以上事故なんか起こしてないよ。」
 ※<止まれ>の標識のある場所では一旦停止し、安全を確認しなくてはなりません

 「いちおう右左折はちゃんとウィンカー点けるよ。曲がるときちょっと手前から点けるようにはしてるよ。よくウィンカーも出さないで曲がる人いて危ないよね。」
 ※交差点の右左折の合図は30m手前から必要です。

 「道路の流れに合わせて走るのが一番いいんだよ。夜は結構みんな飛ばしてるよね。」
 ※標識や標示によって最高速度が指定されている道路ではその速度、標識や標示のない一般道路では時速60キロを超えて走行してはいけません。

 「左折は別に左に寄せなくたってバイクとかよく確認してるから大丈夫。ちゃんと徐行してるよ。ブレーキかけて20キロくらいまで減速してるし。」
 ※左折する場合には、あらかじめ手前から出来るだけ道路の左端により交差点の側端に沿って徐行しなくてはなりません。

 「広い道に出たいときは少し頭を出しとけば、相手も速度を落とすし出やすいよ。」
 ※優先道路に出る場合、徐行をするとともに、優先道路を走行する車などの進行を妨げてはいけません。

 「前の車が遅すぎるときなんか付き合ってらんないよ。となりの車線に車なんかいないし、誰にも迷惑かけないのが確かなら、流れのいいほうに車線を変えたほうがいいんじゃない。渋滞は事故のモトだよ。」

 ※車両通行帯が黄色の線で区画されている場合、車は黄色い線を越えて進路を変更してはならない。

 知人の一般のドライバーやライダーの会話をここに挙げてみました。このドライバーやライダー達は共通して、自分は概ね安全運転をしていると口をそろえて仰っています。実はどの行為も違反行為なのを忘れ日常化しているのです。

 これらの行為が日常化している人に「それは間違っているから直しましょう。」と言ってもなかなか聞き入れてもらうことはできないかもしれません。誰しも自分が正しい、自分が標準的、規則自体が矛盾していておかしいのだ、という考えを持っていることも多いのです。

 危険なことに遭遇したり、事故を起こしてからその重大さに改めて気がつくなどする方も多いようです。確かに自分自身が必要性を感じなければ、わざわざ面倒なこと、しなくても済んでしまうことには興味をもてないでしょう。

 私も完全に法規を守って乗っているかといえば、そうではないと思います。でも、法規を忘れないように、またできる限り守っていこうと考えています。私の運転はまだまだ間違いだらけ、いつもそう考えるようにしています。

 先日、標識を守って一時停止をしたところ後ろからクラクションを鳴らしたクルマのドライバーがいました。低レベルの運転者に腹を立てても仕方がないと思い放っておいたのですが、後から車間距離を詰めて蛇行運転し、非常に気分が悪かったのですが、私は道路の端に停止し、そのクルマに追越をさせて先に行かせました。

 どんなドライバーか気になって横を通過するとき顔を見ると、結構年配の感じの男性でした。向こうもすごい形相でこちらを睨んでいましたけど。若いドライバーやライダーの運転マナーの悪さがよく取り正されている現在ですが、年齢にかかわらず色々な人がいるものです。


 4、事故多発傾向者と1/1000の確立

 事故の大きさや過失の割合を抜きにして考えた場合において、1年から2年くらいで1度事故を起こしているような人を「事故多発傾向者」などと呼ぶそうです。

 「道路を走行中に、道路の端を自分と同じ方向に進行する自転車が近づいてきました。あなたならどうしますか?」という質問をすると、ほとんどの方が注意して十分に側間を取って追い越します、とか速度を落とします、などと答えてくれるのですが、実際に道路を見ていると多くの方が間隔も取らず、速度も落とさず追い越していきます。

 確かに道路の端を走る自転車を追い越すとき、自転車がふらつくなどしてくれば危険な状態ですが、果たして自転車はそんなに頻繁にふらついているものでしょうか?

 このような場合、自転車がふらついてくる確立は、1000台の自転車の側方を通過した場合に1回の確立、と言われています。つまり、ふらついてくることなど滅多にないということです。

 そうなってくると、わざわざ速度を落としたり、間隔を開けるような面倒なことをしなくても危険はないという判断になってきます。実際に面倒なことをしないで走ってみても危なくない場合が多いのではないでしょうか。確かにほとんどの場合に問題は無いかもしれません。

 さて、こういった運転が問題ないこと考えて、何の対応もしない習慣がついた人が道路を走ります。仮にその人が通勤や通学に車などを使用し、1日に2〜3台の自転車を追い越していたとすると、一月に50台程度の自転車の追い越しをしたことになるでしょう。単純計算をすると2月で100台、20ヶ月で1000台目の自転車となるのです。20ヶ月といえば1年と8ヶ月です。

 もちろん、1000台目の人が必ずふらつくわけではありませんし、2000台の横を抜けても危険なことにならないかもしれません。でも、次の自転車がふらつかないともいえないのです。いつでもふらついてきた自転車を回避できるような状態になかったとすれば、いつかふらついてくる自転車が来たとき、当然事故になってしまうでしょう。

 一つの例として、自転車のふらつきの例を挙げましたが、様々な交通場面で危険に対応できない状態の運転習慣がついてしまっていたら、どうなのでしょうか。ある場面ではたまたま事故を回避できるかもしれませんが、それ以外の危険場面で事故を起こしてしまうかもしれません。

 しつこいようですが、 事故の大きさや過失の割合を抜きにして考えた場合において、1年から2年くらいで1度事故を起こしてしまうような人を「事故多発傾向者」と呼ぶそうです。私もそうならないよう、時々自分の運転を振り返るようにしています。


 5、自分の安全を他人任せにしない運転

 優先道路を二輪車で走行中、住宅地の見通しの悪い交差点から急に顔を出してきた四輪車にぶつかりそうになったことがあります。飛び出してきたのは年配の女性の乗る普通乗用車でしたが、あらかじめ速度を落としておいたので、直前で停止できました。

 しかし、その年配の女性はクルマの窓を開け、すごい剣幕で怒鳴ってきました。

 「危ないじゃないの!どこ見て走ってんのよ!!」
 「スミマセン・・・」

 一応、謝っておきました。相当怒ってらっしゃるようで優先関係やその他の交通規則の話をしても理解できそうになかったですし、こちらもそんなに暇ではなかったですし、揉めるのもバカバカしかったので謝ってとっとと現場を離れました。

 過去に交通の教則に関する話をしていたときに、こんな人もいました。

 「交差点を右折しようとして先に交差点内に進入したところ、対向車線を直進車が近づいてきました。この場合、自分が先に右折をすべきでしょうか、それとも対向する直進車が先に直進すべきでしょうか?」
 「もちろん右折の車が先です。」
 「え?そうですか。そればどうしてですか?」
 「先に交差点に入ったんですから、当然先に行きます。」
 「えーっと、○○さん、普通免許お持ちですが、道路でもそうされてます?」
 「もちろん。」
 「危ないときはないですか?」
 「いつも危ない人が多くて、困ります。ひどい人なんかクラクション鳴らしたりするんですよ。」
 「そうですか・・・それでは教本の〜ページを見てみましょう・・・」

 少々年配の女性でしたが、自分がひどいことをしているなんてこれっぽっちも考えていなかったようです。そのときによく説明しておきましたけど、今までよく大きな事故にならなかったものです。話が終わった後もその人はなんとなく納得がいかないような顔をしていました。多分長年そう思い込んでいたのでしょう。

 実際に道路を車などで走っている人の中には、このように法規を間違えて覚えていたり、忘れている方もたくさんいます。自分の安全をこのような人たちに任せておいて良いのでしょうか。

 規則を守るというのは、規則を正しく理解して守ろうとしない限り難しいものです。また、自分が規則をしっかり守っているだけで安全というのは大きな誤解となるのかもしれません。もちろん、自分自身の反則は危険や事故に近づく行為として避けていかなくてはならないでしょう。

 その中でもう一つ考えなくてはならないのは、規則を知らない、忘れた人や、知っていても守れない人、うっかりした人や安全確認ができない人が道路にはたくさんいるということです。こういった人たちは想像以上にたくさんいるようです。そういう人をその場で責めても自分自身が安全な環境になるわけではありません。

 自分自身が、こういった人たちにどのように対処した運転をしていくか考えることが必要ではないでしょうか?自分の運転の中で、敢えてリスクを負っても利便を優先させてしまえば、それは当然他人任せの運転に近づいていくことになると思います。

 道路を使用している人の中には、おかしな行動や危険な行動をする人がたくさんいます。危険なのは当たり前、違反などは当たり前、そう考えて道路を走ってみると、自分自身がいかにリスクを回避しなければならないかが見えてくると思います。

 悲しいことですが私自身は、いつからか他人の運転を信用しなくなりました。このため、規則でホーンを鳴らさなくてはならないところ以外では、他人に向かってホーンを鳴らすことは一切しなくなりました。信用できない人にホーンを鳴らしてもどうにもならないと考えています。危険を防止する目的でホーンを鳴らすなら、自分から速度を落とすようにしています。どうしても合図の必要なときはジェスチャーか、夜間はパッシングを使うようにしています。

 そのおかげかどうか、自分が危険を感じることは過去に比べ少なくなりました。これは私自身の考え方ですが、これも自分の安全を他人に任せられないという気持ちからのことです。これが良いことかどうか分かりませんが、少なくとも危険予測や危険発見は少し早くなったように感じています。

 安全を他人任せにしない、それは自分から積極的に安全を求めていくゴールのない学習なのかもしれません。

2006/4/17 MOTO

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